こんにちわ。鑑定歴・カウンセラー山﨑了観です。歴20年の中で多くの方に添わせて頂きました。人らしく生き抜くために運命の導きや心に触れ、サポートさせて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします。
貴方の人生の主導権を取り戻すため
『ryo-counseling.net』を役に立てください。
10歳の時 神の道へ生きるよう定められ30歳の時鑑定所を開業しました。早すぎる『運命の定め』は過酷な経験も強いてきました。これまでに4箇所の相談所を設け既に6万人以上の方のご相談、実際の案件はその数値を超えます。
私の人生の一部も壮絶なものもあります。そしてご相談をくださるクライアント様の人生の一部も壮絶なものもあります。
苦しさの多くは人(ヒト)対 人(ヒト)によるもの。人生を生き抜く中に本当は知らなくても良い苦悩もあります。
しかし人は心に幸せを得ようとする時、生まれたその瞬間から導きと苦悩の繰返しを得て自分を知る道を辿るのです。その時は必ず乗り越える術というものがあります。
『ryo-counseling.net』ではカウンセリング・鑑定・またはそれらの能力に苦しむなど、必要な方へのサポートを行っております。
この世に生まれ
貴方が一人ぼっちと感じるなら
少し立ち止まってみませんか?
人は生き抜くことを求められますが一人でなど誰も生きては居ないのです。だから一人ぼっち‥切なさや違和感に気づくことが必要なのです。貴方は感じていませんか?自分でもあり、もう一人の自分…みたいな。その原因はなに?
貴方があらゆることに直面している時、そこには必ず出会いと意味が存在しています。
切なさの根源を理解して自分を受け入れた先には必ず、『これで良かったんだ』と生きてきたことを安堵に感じる『時の流れ』があります。
時の流れを知り、自分の中の本当の自分を知った時、貴方は恐れ無くなるのです。手放しましょう。悪循環を。そして幸循環へと変容を。
運命性と貴方自身を知りたい方、
ぜひ目次へ目を通してください。
またキーワードからブログを見てくださることで
紐解けるものがあるかもしれません。
誰にも言えない苦しみや繰り返す悪循環があるならば
本来の幸循環の道の上を歩けるよう一緒に考えましょう。
自分を人生をしっかりコントロールできるように
心の取り扱いを手に入れましょう。
それが幸循環への始まりです。
~~~~~~~もくじ~~~~~~~
10歳 運命の分かれ道

二輪・自動車会社を経営する家に四人姉弟の三女として生まれ祖父祖母・両親の家族の基に育てられ賑やかな家族の一員でした。商売を行う両親は常に忙しく、私には祖父がいつも寄り添ってくれて居ました。祖父は戦後に会社を興し努力をした人でした。
商売に出向く時、私を車の助手席に乗せ、その楽しみは子供ながらに友達と遊びに行くよりも嬉しかったことを覚えています。いろんなお客様からお菓子やご褒美をもらえたり『お手伝いができていい子だね』って褒めてもらえ
たものでした。祖母もなんでも手作りが上手な女性で味噌も豆腐も揚げ物も団子も漬物もお米も。祖母の台所に行けば宝の山って感じで。特に厚揚げと天ぷらは最高で出来ない事は無い位よく働く女性でした。
近隣の人たちもよく言葉を交わし互いの存在を感じていた事を子供ながらに覚えています。祖父らの様に懸命に生きることが良いことだと私は覚え子供時代を過ごしました。今でも頑張ることがあの頃のように幸せを運んでくる気がしてなりません。
子供の頃はまだ生死の概念が分かりませんでした。自分に寄り添ってくれる祖父は私とずっと一緒にいるものだと思い込んでいた。そう思いたかった。しかし、10歳の時祖父は他界。早い挫折と喪失は自分がどうやって生きていけば良いのか未来を描くことが出来なくなっていきました。
朝、祖父に『行ってきます』と言葉を交わし、帰ったら祖父の本棚に背中を摺り寄せて本を読み、夕暮れには一緒に近くの土手を散歩し。私は寂しくなどなかったのです。
小学校に登校した朝、教室に入るなり間もなく‥『すぐに自宅に帰るよう』職員室から走ってくる担任が私に伝えました。その時に何が起きたかすぐにわかりました。担任の口から祖父の訃報。嫌でした。
そういえばいつの日か祖父は家から居なくなり、私は母に何度も聞きました。『おじいちゃんはどこにいるの?』って。
しかし、母は『もう少ししたら帰って来る』としか言わなかったのです。どこに行ったんだろう…帰ってきた祖父の体は、帰宅した私の前に白い着物で横たわり冷たくなっていました。闘病生活からの隔離。
祖父が他界した日は息もできないほど涙が止まらなかった。冷たくなった足を揺さぶって『おじいちゃん 起きてよ。どこに行くんだよ』って私は泣き続けその泣き声で親戚中もすすり泣きを止めなかった。苦しかった。
小学4年のクラスは当時いじめの空気と、えこひいきとストレス発散を面白がるように手を上げる担任の素行で重苦しい雰囲気を漂わせていました。ようやく学校に登校していた私にとって居場所はなく、学校生活の重苦しさを誰にも打ち明ける術もなく流される時間を過ごしていました。だから自分の居場所をまた見つけなければなりませんでした。
家業/神業の誓約 霊能者の生きる道・祈祷師・神がかり・陰陽武士…。
祖父の家系に神がかりがおりました。法者(祈祷師)の末裔になるもの。一筋の武士族の末裔‥その中には陰陽の学びを得たものも。その能力は私が引き継ぐことと定められ他界した祖父との繋がりを引き換えに神の言葉・誓約が降り注いだのです。
10歳の頃の出来事、今でも良く覚えています。他界した祖父の夢を何度も見ました。空を眺めては子供ながらに雲の中に祖父がいると信じ。いつもその世界に連れて行ってほしいと願い。一人で過ごす事がこんなに寂しいものか。
そう問い続けている中、祖父の先祖の一つ法者(祈祷師・神業)のお告げが届きます。『この生業を引き継ぎなさい』私には霊視と霊聴という能力がありましたから、神の姿が視えた時、お観音様はそうおっしゃったのです。
私は『祖父に会えるなら』と聞こえた声に承諾してしまったのです。神仏との契約。私はしまった!っ何かから逃れられない…と知りながら自分の道が定められてしまった事。子供ながらに人生の先が分かった気がしました。私にとって嬉しい事ではありませんでした。
その頃から視えなくても良いものはあらゆる角度で視界にも脳裏にも私のビジョンの中にも表れるようになりました。霊感が強いという事では収まらず、寄ってくるものや人の影響を受けました。それは時に熱や事故、運の悪さをもたらしたのです。何かを上手くやろうとしても邪魔もケガも大いにありました。だからこそ、自分の力だけではどうにもならない事が起こります。
人数分のお弁当が私の前で切れる…とか。誰かのトラブルの責任を私がかぶる…とか。神隠しみたいな現象などざらだったのです。
ほらね!だから嫌だったんだよ!この道の引継ぎは‥!心の中はそう叫んでいました。自分の人生がすでに自分が思い描いているものとは違うのですから‥。子供ながらにも霊媒体質によって現象化し止まない頭痛と、周囲におこる予知的現象。見えなくても良いものまでが視える世界。人の病気や生き方まで。言葉を交わさなくてもその人の考えている事がわかってしまう事。
その感覚は私にとって友人や知人、家族との関りにも強く影響しました。だからこそ一人にならざるを得ない。本当は知らなくても良い世界もりました。もう一つの辛さはこんなに目まぐるしい状態でも周囲の人には気づかれない事なのです。
はあっ…。
10歳 運命の分かれ道

小・中・高校 学生時代 孤独世界を歩く私にとって建物を見る事、図面を描くことは面白くて仕方がありませんでした。祖父の影響で描くことが身に付いたのです。一人の時間は寂しくても大切な時間でした。頭の中で妄想ばかり、絵を描く…マインドクラフト。ノートと鉛筆、定規と方眼紙。握ってひたすら線を描くのです。その中ではどんな家にどんな家族が住んでいて…。
勝手に家族のストーリーを描いたりして自分の空想家族を作り上げていました。時に気に食わなければ修正もできましたから。
それに私は目測ができたのです。
図らなくても長さを。
時計を見なくても時間を。
数えなくても数を当てられたのです。
みんながそんな能力を持っているんだとさえ思い込んでいたこともあります。私は自分の能力が面白く‥一人で一心に建築家への道に心を注いでいました。それは私にとって大切なじかんでしたが、実際に理解されにくかったのです。怠け者みたいに…。
10歳 運命の分かれ道

父親。姉二人と弟に対する待遇と態度は、私にとって苦しいものでした。親の無関心。その為に父親との距離を近くに感じたことが在りません。また、姉弟は自分のことばかり、同じ家に生まれながら私は誰とも共通の話題を持てませんでした。進学の大切な時期、父は私への援助を無視していました。その為に自分で働きながら学校に通う苦学生となったのです。
腹が立ちましたが自分の道があるのなら、自分の為に生きていけばいい。と心に決めたのです。しかし親というのが何なのか考えさせられました。自分にとって機嫌を伺うだけの存在、何かを許可してもらう為に罵倒される分厚い壁の様なもの。
どうせ反対される事ばかりなのにのにいちいち言葉を交わさなければならない‥父の存在。
祖父の居ない家は私にとって家族では無くなっていました。
祖父の残した会社は父が好き勝手にした後私の進学の時、
大きな負債を抱えていたのです。
祖父が生きて居たらこんな事になっているはずがない。
自分の存在をかき消されたことへのわだかまりは解けません。

1人で働きながらも学校に通い、掴んだ私の仕事。念願ではないけれど有力な会社でした。技術能力者の集まる設計会社。面白かった!なんとかついていきながら‥私の能力を買ってくれていた設計会社からは出世の話が這い込みました。24歳の時、異例の若さで周囲の人たちが注目してくれて居たのです。
橋梁 耐震 水道管など 興味深い仕事でした。一時エリートの道と呼ばれた道の上にもいました。迫力も魅力も未来もありました。傍らで専門学校講師も務めました。
ところが父の病状の為に家族は私を実家に呼び戻したのです。むろん断りを入れました‥逃げる姉達とうろたえる母。『これで家族と離れられるのなら』と、私は自分の夢を叶えたかった、誰にも邪魔されずに。しかし自分の業績を諦め私は父の看病を選択したのです。
不仲の父の看取りをしたのは私。周囲は父ばかりを心配している様子。私が自分で努力を重ねて来た道が壊された事への悲しみに気づいた人は居ませんでした。
母も自分の寂しさばかりを気にする姿に…私は二度とこの家には戻らない。と心に刻んだ。だから父の他界の時『もういいよ』私はそう伝えました。
父は跡継ぎが欲しかった…だからお互いの存在に向き合う事がないまま。私はいつの間にか両親に線を引くようになっていました。うっすら気づいていた居心地の悪さ、距離をとる事は私が身を引いていれば関係は悪化しない…悟った私のせめてもの姿だったのです。これが自分の人生の色なんだと若くして気づいていました…。
この時にも、人には人生の色があるんだと云ことが良く理解できたのです。それは少し他人事のような感覚でもあり悟りの入り口でもありました。これまで必死に学んだ建築の世界に足を踏み入れることなく、叶わない自分の現実とのギャップ…ズレた道。
それでも私は設計の業界にしがみつき…両親の不理解によって狂った道。チャンス願い続け努力だけは止めなかった。しかし設計に細々携わり自分が残せたものは多量の電子データと会社のタイムカード。自分は小さいままでした。

まだ、完成しない夢を追いかけている私に、パートナーとのめぐり合わせ。子供との縁がありました。しかし、まだ何も自分には備わっていないため、悩みました。
大人になりながらも、心から人生の相談ができる人が私にはおりませんでした。なぜなら答えは自分の中におのずとあったからです。同時に神の声が聞こえ、それは私にとって全てを自分判断しなければならないものだったからです。
霊能者として先が視えてしまう…もし違う答えを選択したとしてもやはり予兆どおり見えた先はそのようになる…。神の縛り…。
目に見えない世界の見通しは私の心に制約を産むようになっていました。逃れられないと悟った現実とがんじがらめの心。自分の人生を選択することが出来ない窮屈さ。私は出家を果たした気持ちでした。
なぜなら、人生の夢を自分の考えでもっと自由に生きてみたかったからです。
30歳の出産。一卵性双生児の女の子たち。大きな雷の音とけたたましい雨の音。二人との出会いは私にとっても命がけと言わんばかりの始まりでした。難産出産と超未熟児からの成長。
シングルマザーから始まる生活にいよいよ、夢を追いかけている場合でもなくなっていった自分が居ました。私も貴方も一人じゃない…生きていかなきゃと思うようになった私の人生。
出産予定日にはまだほど遠い9カ月を過ぎた頃、私の中では異変が起きました。胎盤を共有する一卵性の二人は姉の血液が片方の体に流れこみ血液を多量に受けた妹は肺を破り一時心肺停止の状態に。
双胎間輸血症候群です。母子共に緊急手術は行われ私自身も一時不明の状態に。
一人の娘は紫色に。一人の娘は小さな鳥が鳴くような声で生まれました。ドクターたちが走り回り紫色になった娘をどこかに連れて行ったのです。手術室の扉がしまり・・会ってもいない娘の死を覚悟せざるをなく。
2日経ち、嘘のような話が聞こえてきました。意識が戻ったのです。私も紫色になっていた娘も。
母が言いました法者(祈祷師)に行き命を守ってもらえる様にお願いしたと。祈祷師は娘たちを三途の川に連れて行かないように願いをかけたと。ガタガタと音を鳴らして神棚の扉が揺れてもいたが遂には神頼みは届いたんだ。って。
祈祷師の先生は汗だくで教文を唱えるとまるで力が抜けたように膝間づいて『やった! 病院に戻ってごらん。あの世には連れていかれて居ないよ』って。
眼を開けた私の顔を、言葉を失った母が覗き込んでいた。私はそれだけでも少しだけ嬉しかった。どうしてこんな人生なんだろう。
娘の様態が危機から脱した頃、対面が出来ました。二人は超未熟児。身体障害が残るかもと懸念も受け。
しかし、息を吹き返したからには一緒に生きていこうって思ったのです。当時、他の病院で娘らより未熟児の子供が生まれたというニュースを聞き驚きました。まだ1200グラムの娘はましな方だとさえ。700グラムで生まれたその子はなんと健在、さらに三つ子さんが元気に生まれたnewsも。一体人の運命は誰が決めているのだろう。
この時、もう一つ運命が在りました。悪縁です。パートナーである男性は家庭を守れない素行の悪さが在りました。パートナーとの不和。私は父親同様、目を背けていましたが…。それが避けられない事態を起こしていきました。
人の事は放っておいた方がいい、自分だけで生きていくことが身を守れるのだから。とまだ、そう思っていました。
しかし、『10歳 神仏との契約』
あの頃に課せられていた約束が動き始めたのです。『人生を見つめて自分の役割に目を向けなさい。子供を守ることで人の生き方を学びなさい』
さらなるお告げが来たのです。あーまた来た!聞きたくないやつ。
しかし縁を持った人が足を引っ張る思考の持ち主だと分かった時、人はしっかりと向き合わないとならないものなんだと、だからこそ悟りを開け!との事。
相手の嘘を言う言葉にガツン!と開眼してしまったのです。
相手の素行、人格、考え、育ち、その人の環境まで。視えるということがどれほどややこしい事か。人の事は知らなくても良い部分、あるのですから子育てをしながらの開眼は少し辛かったです。
なんでも視えて…とくにPTA(自分が人生の中でPTAとかに参加するなんて思ってもなく)…これまで避けきた道でしたが
『もう自分のやるべきことを真っすぐに進みなさい』天の声によって私は入職することに。ここでは宿命からもう逃れられなかったのです。
撥ね退けてきた長い間、実際には熱が止まなかったのです。神の道に入ることによってとりあえず体調不良からは解放されました。建築家への夢も叶わせてもらえる訳ないじゃない!そこから鑑定業が始まりました。そこにあったのは覚悟のみ!
シングルでツインズを産み、私は自分のように子供たちには孤独を感じて生きていて欲しくなかった。急に慌ただしく、仕事も多量に抱えながら小さな二人を育てる事になりましたがどうしても仕事中心のスタイルを曲げることが出来ずにいました。それをうまく解決するには自分の睡眠を削っていくほかありませんでした。
それでもよかった。たかが眠れない位なんとかすれば。シングルマザーという生活。
有る時、ふと、どうせなら立派な人が父親になってくれたら…思いを抱くようになったのです。あれほど父に苦しめられてきたのにも関わらず娘達にとっては父親が必要と感じたのです。
私は一人の男性と縁を結びました。彼の『責任を持つから』という言葉を信じ家族の縁を持ちました。
しかし夫は自分のキャリアばかり気にし私たちを煩わしく思い次第にDVが始まり手を上げるようになっていたのです。
自己中心な人の思考の犠牲になるのはもう沢山でした。彼の支配的な感覚はとても家族を守れる雰囲気ではありませんでした。
話は通じずつ、やることなすこと否定をしてくる。私は次第に自分を責めることに心が落ちていく…恐ろしい感覚。
子育て、生活、仕事。協力の雰囲気はなく、ついに神経失調と記憶の分裂のようなもの、鬱の発症をしてしまったのです。これが鬱かって!家庭への影を落としている暮らしは先が見えないのです。
なぜ家族を持ちながら大切にしないのか。
私はもう一人息子を出産しました。しかし多忙、十分に愛情を与えてあげられないまま、自閉症スペクトラムと戦い続けている息子と目まぐるしい生活を送ることになりました。全てを一人で抱える事の苦しみはどうしようもありませんでした。
自分とは何か‥自問自答を繰り返しながら家族との関りに疲れと限界‥自分が休む間もない。生と死の狭間の思いです。
子供への対応を母親の責任にする風潮は社会的な視点からも家庭の一員としても重圧を感じました。常に離婚を考え、現実と逃避との間に自分が居る。生まれてきた子を責めるわけにもいきません。
学校の支援を頂きながらなんとか理解をしていこうと取り組むけれど、子供たちの間では常にトラブルが絶えず、家族以外の場所でも問題が起こる事。
歯医者に連れていくだけなのに居なくなるから数時間も探し回らなければならない事、年下の学生と喧嘩をしながら叫んで帰ってくること。なぜ、そこまでして混乱を呼ぶ暮らしをしなければならないのか。
私がこの子に感じたことは、私が母親でいることを辞めるほかない。ということでした。愛したくても愛を示せない。
答えの出ない家族の問題。
夫のストレスを私にぶつける日々。次第に私たちの家族はDV家庭にはよくある警察沙汰の領域に踏み込んでいました。機能不全家族・・このようなワードを聞いたことが在りません…私がこの家族を作るまでは。
夫は子育てには殆ど協力をせず気の向く時だけ。子供の話をしたくても自分には関係ない。という空気、私が父から味わってきた事を私の娘たちにも味合せる様になっていたのです。
暴力を受ける事への苛立ちと体力の消耗、意識分裂、子供たちの不安。本当に休みたかった。相手を信じたくても何がそうさせているのか、理解しようとしてもその時に解明できたことは殆どありません。
何が原因で妻を殴るのか?
力づくの夫、床に転がる自分。震える子供の手で110番。目の上の血まみれたコブで視界が狭く、鼻血で息が出来なかった。
娘達は当時小学二年生。二人で泣きながら110って。駆けつけた警官は娘たちを抱きしめて大丈夫だよと救ってくれました。私はこのまま生き返るのが怖かった。
DVは治らない。
そう気が付いた時、手だてはない。そう感じました。駆けつけていた警察官の諭しでようやく距離をとることが出来たのです。それでも離婚時も私を追いかけてきた。
どんな暴力でもしてはいけない。子供・命の尊さ・愛情を知ろうとしない誰かに託すことは危険な事そのものだと。10年間の結婚生活は長い別居の末終わりを迎えました。彼は極度の鬱でした。
ようやく少しだけ休めました。
私はその長年の孤立とストレスの為に、一度大きなミスを犯しました。致命的も致命的。あいっちゃ!私は離婚直前に特殊詐欺に巡り遭ったのです。
離婚を控えているのに詐欺にも会う。どういうこと?マイナスルーレットが回り始める負の連鎖‥不思議でした。心はぐれた犯罪者と心理戦争のような悪事件、ツインレイと偽ツインレイ、出来損ないの巡り会わせに運命の悲しさを知りましたが悪循環とはこのことで。
私はいよいよ負の連鎖から抜け出すことを決意しました。
私の中に存在していた父親像‥心の中で許していない事そのものをもう手放そうとはっきり感じたのです。誰にも私の人生の邪魔をされないよう…穏やかに生きていきたい。
これまでは誰にも相談せず判断力を失いかけていたのを覚えています。とても疲れていました。夫に頼ることが出来ないまま全てを一人でこなすワンオペ生活。現実逃避が心を分離させたんですね。一人で生きようとすることが間違いを起こすのだと学んだ一件です。しばらく休息をとればよかったって後からよく反省しました。
DVは治らない。
うまくいかない人生、その陰に何があるのかを解明しようとした私は数十年の思いを母親にぶつけたのです。感情は母に突き刺さり静かに母の頬をいくらもの涙がたどりました。
いつも外野で見ていた母の姿に同じ女性として生き方が違う事、どうせ私のことなど理解できないだろうと母親を無碍な存在として決めつけていた…そういう自分が育っていました。一言だけ母が私に言いました。
『貴方が家族の犠牲になっていたんだよね。すまなかった』と。
その母の年齢は既に80歳。彼女は自分の生き方を知ろうとしては居なかった。だから私の事も理解していませんでした。両親への期待と絶望。確認などしなければ良かった。答えてもらえるなら親の口から真実を聞きたかったのです。しかし、答えは私が感じていた通り…こんなもんだよなって。
私にとって理想とはかけ離れた両親、報われることを求め続けた長い時間。しかし、私は自分の真の願いを心に問き自らを知る決意に向き合い始めました。人に譲るばかりでなく自分の思いを大切にして生きていくことが必要だと理解したのです。
神の誓約を受け、これほどに体験したのはカルマというもの。『運命と宿命』。長い時間の戦いを緩やかに収束させ心と運命の誘導によって進んでいます。
それと私が決断した事は、自閉症の息子に暫く父親と寄り添う時間を生きてもらう事でした。私に衝動的に向かって感情をぶつけてくること。男同士なら穏やかに過ごせるのではないか。と常に感じていたのです。療育的指導よりも家族が寄り添っているいう人生の記録の方が大切だと。
父親・夫との繋がりを作れない私が息子を理解してあげられるものか‥自分に出来るとは思えませんでした。
現在は夫も息子も二人三脚で世界を作り試行錯誤で生活をしています私は『自分で取り組む生活、人任せにしない生活、自分で理解を深める生活』それを感じて欲しかったのです。言葉を交わすことが出来ない今、それでも彼は進学校への合格通知をめざし懸命に自分の道に向かって勉強を続けています。もう少し成長した時、もう一度私は息子との生活を共に安心させてあげようと決めています。
45歳 グルっと一周した人生
【現実は
…繋がっている家族が居てくれた】
うまくいかない人生、その陰に何があるのかを解明しようとした私は数十年の思いを母親にぶつけたのです。感情は母に突き刺さり静かに母の頬をいくらもの涙がたどりました。いつも外野で見ていた母の姿に同じ女性として生き方が違う事、どうせ私のことなど理解できないだろうと母親を無碍な存在として決めつけていた…そういう自分が育っていました。一言だけ母が私に言いました『貴方が家族の犠牲になっていたんだよね。すまなかった』と。その母の年齢は既に80歳。彼女は自分の生き方を知ろうとしては居なかった。だから私の事も理解していませんでした。両親への期待と絶望。確認などしなければ良かった。答えてもらえるなら親の口から真実を聞きたかったのです。しかし、答えは私が感じていた通り…こんなもんだよなって。私にとって理想とはかけ離れた両親、報われることを求め続けた長い時間。しかし、私は自分の真の願いを心に問き自らを知る決意に向き合い始めました。人に譲るばかりでなく自分の思いを大切にして生きていくことが必要だと理解したのです。神の誓約を受け、これほどに体験したのはカルマというもの。『運命と宿命』。長い時間の戦いを緩やかに収束させ心と運命の誘導によって進んでいます。それと私が決断した事は、自閉症の息子に暫く父親と寄り添う時間を生きてもらう事でした。私に衝動的に向かって感情をぶつけてくること。男同士なら穏やかに過ごせるのではないか。と常に感じていたのです。療育的指導よりも家族が寄り添っているいう人生の記録の方が大切だと。父親・夫との繋がりを作れない私が息子を理解してあげられるものか‥自分に出来るとは思えませんでした。現在は夫も息子も二人三脚で世界を作り試行錯誤で生活をしています私は『自分で取り組む生活、人任せにしない生活、自分で理解を深める生活』それを感じて欲しかったのです。言葉を交わすことが出来ない今、それでも彼は進学校への合格通知をめざし懸命に自分の道に向かって勉強を続けています。もう少し成長した時、もう一度私は息子との生活を共に安心させてあげようと決めています。
そして50歳になりそうです
長い時間、様々な経験をしましたが実際に私が救われた瞬間があります。私はようやく1つ何かが終わったと感じました。振り回された私の人生の時間。使命を受け‥命がけでこの世に生まれた双子の娘達が志望大学に合格しその道を自ら進み始めた時、また1人の娘は芸術家の道へ1人の娘は建築家の道へ。そして息子は科学者への道を目指し進学校へ合格したのです。親となった自分は未熟だと自分を責めていました。しかし子供達は自分らの未来をちゃんと見ていました。ありがとう。皆一人ではありません。これらの人生の土台は同じように苦悩する貴方にも必ず役に立つと心に刻んでいます。一緒に運命に寄り添い幸循環の道を進みましょう。
【最後に】
鑑定所開設、開業し現在までに延べ約6万人以上の鑑定、あらゆる件に携わりました。
霊能業は多くの方々とのご縁とともに様々な人生にも触れながら、自身の人生もあらゆる波を経験しながら現在にたどり着きました。1人でも多くの苦しみを、寄り添いながら解消し本来の自分自身の道を歩んでいると感じられる貴方の姿に導けますことを願っています。
お読み頂きありがとうございました。
山﨑了観

山﨑了観








