こんにちは。運命鑑定・カウンセラー山﨑了観です。歴20年の中で多くの方に添わせて頂きました。人らしく生き抜くために運命の導きや心に触れ、サポートさせて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします。

10歳の時  神の道へ生きるよう定められ30歳の時鑑定所を開業しました。早すぎる『運命の定め』は過酷な経験も強いてきました。これまでに4箇所の相談所を設け既に6万人以上の方のご相談、実際の案件はその数値を超えます。

苦しさの多くは人(ヒト)対 人(ヒト)によるもの。人生を生き抜く中に本当は知らなくても良い苦悩もあります。

貴方の人生の主導権を取り戻し生きるため
『ryo-counseling.net』を役立て下さい。

目次またキーワードからブログを読んで頂くことで紐解けるものがあるかもしれません。貴方に今必要なものを選択してください。

繰り返す悪循環を手放してください。それが幸循環への始まりです。

も く じ

★10歳 運命の分かれ道

忘れない家族だったあの頃

大切な祖父との別れ

頼れぬ親 壁となる父

小学4年クラス崩壊

交わらない友人たちと自分の世界

友達の輪の中に入りたい時もあるけれど私のように皆も忙しいんだろって私は思い込んでいた

10歳 与えられたもう一つの道

神がなにかしら言ってきたら誰しも簡単には逃れられない

断ることはできない神からのお告げ…一体どういうこと?

怪奇現象とその歯止め

20歳 人生の岐路 1人で歩いた親の犠牲の道と重さ

親でさえ子供の努力は理解できない

親の勝手な解釈が子供の人生を捻じ曲げる

報われる人生って何だろう…このまま描いた道には進めない事を悟った時 人生の底を知る

気付かれないまま家族の犠牲となり辿る自分だけが自分を知っている道

30歳 人生の転機となる出会い更なる人生の岐路に立つ

孤独と思っていた私にも子供の縁が

30歳 母となり雷と共に生まれた一卵性双生児

奇跡の体験は大きな絶望と希望の入り混じり

生死を分けた出産

生きる強さをみせられた誕生の時

30歳 開眼の世界

重すぎるしんどさ…出産後の逃れられない開眼

35歳 遂に壊れた家族父親を求めた私の大きな間違い

私は耐えがたいカサンドラ症候群に

話し合いのできない男性しかしそれは紛れもない自分の夫

家族であるはずなのになぜか一人だけ追い込まれていく…精神の不安が呼んだ崩壊

35歳 ついに壊れた家族 幸せになろうとすればするほど何かがおかしくなっていく

自閉スペクトグラム児の母となり受け止められなかった子育て

機能不全家族…CVと精神崩壊 気づかぬ本人被害者意識が壊した大切な家族

40歳 過去の自分との決別 DVは暴力だけではない

あいっちゃ!としか言えない…孤独が生んださらなる失敗

弱った自分では人生を歩いて行けない子供たちが居たから前進することが出来た現実

いつの間にか母を頼らぬ自分…母が味方になってくれていたとしたならば

残された人生 二度と繰り返さないと心に誓う

45歳 グルっと一周した人生現実は離れていても繋がっている家族が居る

…だから家族と共に未来に生きていこう

バトンは未来に向かっている…いよいよ子供たちが未来へはばたく好循環へ

最後に

10歳 運命の分かれ道

忘れない家族だったあの頃

二輪・自動車会社を経営する家に四人姉弟の三女として生まれ祖父祖母・両親の家族の基に育てられ賑やかな家族の一員でした。商売を行う両親は常に忙しく、私には祖父がいつも寄り添ってくれて居ました。祖父は戦後に会社を興し努力をした人でした。

商売に出向く時、私を車の助手席に乗せお客様のところに行く。その楽しみは友達と遊びに行くよりも嬉しかった事を覚えています。祖父を独り占め『お手伝いができていい子だね』って褒めてもらえるのですから。

祖母もなんでも手作りが上手な女性で味噌も豆腐も揚げ物も。近隣の人達も互いを大切にし仲間って感じていた事を覚えています。祖父らの様に懸命に生きることが良いことだと覚え子供時代を過ごしました。今でも頑張ることがあの頃のように幸せを運んでくる気がしてなりません。

大切な祖父との別れ

子供の頃はまだ生死の概念が分かりませんでした。自分に寄り添ってくれる祖父は私とずっと一緒にいるものだと思い込んでいた。そう思いたかった。しかし、10歳の時祖父は他界。早い挫折と喪失は自分がどうやって生きていけば良いか、分からなくさせました。

朝、祖父に『行ってきます』と言葉を交わし、学校から帰ったら祖父の本棚に背中を摺り寄せ本を読み、夕暮れには一緒に近くの土手を散歩し。私は寂しくなどなかった。

そういえばいつの日か祖父は家から居なくなり、私は母に何度も聞きました。『おじいちゃんはどこにいるの?』って。しかし、母は『もう少ししたら帰って来る』としか言わなかったのです。どこに行ったんだろう…

帰ってきた祖父の体は、帰宅した私の前に白い着物で横たわり冷たくなっていました。闘病生活からの隔離。

冷たくなった足を揺さぶって『おじいちゃん 起きてよ。どこに行くんだよ』って私は泣き続けその声で親戚中もすすり泣きを止めなかった。

頼れぬ親 壁となる父

父親。姉二人と弟に対する待遇と態度は、私にとって苦しいものでした。親の無関心。その為に父親との距離を近くに感じたことが在りません。また、姉弟は自分のことばかり、同じ家に生まれながら私は誰とも共通の話題を持てないまま…。

進学の大切な時期、父は私への援助を無視していました。その為に自分で働きながら学校に通う苦学生となったのです。腹が立ちましたが自分の道があるのなら、自分の為に生きていけばいい。と心に決めたのです。話しても会話にならなかったから。

親というのが何なのか考えさせられました。自分にとって機嫌を伺うだけの存在、何かを許可してもらう為に罵倒される分厚い壁の様なもの。どうせ反対される事ばかりなのにのにいちいち言葉を交わさなければならない‥父の存在

小学4年学級崩壊

小学4年のクラスは当時いじめの空気と、えこひいきとストレス発散を面白がるように手を上げる担任の素行で重苦しい雰囲気を漂わせていました。

登校した朝、教室に入るなり間もなく‥『すぐに自宅に帰るよう』職員室から走ってくる担任が私に言いました。その瞬間何が起きたかすぐにわかりました。担任の口から祖父の訃報。嫌でした。

ようやく学校に登校していた私にとって居場所はなく、学校生活の重苦しさを誰にも打ち明ける術もなく流される時間を過ごす…。だから祖父のいない家の中でもここでも、居場所をまた見つけなければなりませんでした。

交わらない友人たちと自分の世界

自分の道は孤独でも自分で行くしかない。誰かを頼れない、甘え方をしらないけれど自分で何とかしないといけない。と自ら責任を感じる事と。みんなどうやって家族と仲良くしてるんだろう。

私には強く抱いている夢が在りました。祖父から継いだ設計書…夢は建築家。必ずそうなって見せる。ずっとそう思ってきました。

祖父の他界・小学校時代から専門学生時代。友人たちとの遊びや付き合いよりも私はいつも絵や図面を描いていました。私にとって建物を見る事、図面を描くことは面白くて仕方がありませんでした。祖父学びを吸収したくて描くことが身に付いたのです。

頭の中で図面と妄想ばかり、絵を描く…マインドクラフト。ノートと鉛筆、定規と方眼紙。握ってひたすら線を描く。どんな家にどんな家族が住んでいて…。勝手に家族のストーリーを描いて自分の空想家族を作り上げていました。時に気に食わなければ修正もできましたから。それはそれは楽しくて仕方なく。一言も誰ともしゃべらなくても一日が終わる。なんて良い才能だろう!

友達の輪の中に入りたい時もあるけれど私のように皆も忙しいんだろって私は思い込んでいた

それに特殊な能力があり私は目測ができたのです。
図らなくても長さを。
時計を見なくても時間を。
数えなくても数を当てられたのです。

みんながそんな能力を持っているとさえ思い込んでいたこともあります。私は自分の能力が面白く‥一人で一心に建築家への道に心を注いでいました。それは私にとって大切な時間でしたが、実際には周囲の人には理解されにくかったのです。変わり者みたいに…。

神がなにかしら言ってきたら誰しも簡単には逃れられない

神がなにかしら言ってきたら誰しも簡単には逃れられない

それは一人で考えなければならない精神自律自との戦い

誰かに見張られているから…神の道に従っているのかを

なぜならなぜ自分にそのお告げが来ているのか、神の使命を受けている人間には分かるからです。自分に言われているという事が。その証拠に、能力は霊視力や神通力をあてがわれます。

断ることはできない神からのお告げ…一体どういうこと?

それは実際に大変なことです。その頃から視えなくても良いものはあらゆる角度で視界にも脳裏にも私のビジョンの中にも表れるようになりました。霊感が強いという事では収まらず、寄ってくるものや人の影響を受けました。それは時に熱や事故、運の悪さをもたらしたのです。

何かを上手くやろうとしても邪魔もケガも大いにありました。だからこそ、自分の力だけではどうにもならない事が起こります。人数分のお弁当が私の前で切れる…とか。誰かのトラブルの責任を私がかぶる…とか。神隠しみたいな現象などざらだったのです。

ほらね!

だから嫌だったんだよ!

この道の引継ぎは‥!

奇怪現象とその歯止め

自分の人生がすでに自分が思い描いているものとは違うのですから‥。本当につらいのは子供ながらにも霊媒体質によって現象化し止まない頭痛と、周囲におこる予知的現象。見えなくても良いものまでが視える世界。人の病気や生き方まで。言葉を交わさなくてもその人の考えている事がわかってしまう事。

ただ、その中で役目を果たそうと決めた時、熱や事故のトラブルがピタリとやんだのです。

これらは私にとって友人や知人、家族との関りにも強く影響しました。だからこそ一人にならざるを得ない。本当は知らなくても良い世界もりました。もう一つの辛さはこんなに目まぐるしい状態でも周囲の人には気づかれない事なのです。

はあっ…。


…親でさえ子供の努力は理解できない

掴んだチャンスを捻じ曲げられてしまう

祖父の居ない家は私にとって家族では無くなっていました。
祖父の残した会社は父が好き勝手にした後私の進学の時、大きな負債を抱えていたのです。

祖父が生きて居たらこんな事になっているはずがない。
自分の存在をかき消されたことへのわだかまりは解けません。

働きながらも学校に通い、掴んだ私の仕事。念願ではないけれど有力な会社でした。技術能力者の集まる設計会社。面白かった!

なんとかついていきながら‥私の能力を買ってくれていた設計会社からは出世の話が這い込みました。24歳の時、異例の若さで周囲の人たちが注目してくれて居たのです。

橋梁 耐震 水道管など 興味深い仕事でした。一時エリートの道と呼ばれた道の上にもいました。迫力も魅力も未来もありました。傍らで専門学校講師も務めました。充実していったのです。


親の勝手な解釈が子供の人生を捻じ曲げる

ところがせっかく波に乗っている中、家族は私を実家に呼び戻したのです。むろん断りを入れました‥父の病状の為に。逃げる姉達とうろたえる母。

私は自分の夢を叶えたかった、誰にも邪魔されずに。邪魔されない為に『また勝手な家族の考えに振りまされる。自分たちの事しか見えていない人たちに自分の人生をかき回されたくない。これで家族と離れられるのなら』と、私は自分の業績を諦め父の看病を選択したのです。

これを最後だと思って。

報われる人生って何だろう…このまま描いた道には進めない事を悟った時 人生の底を知る

舵をとれないままの人生に焦りを感じていたこと。不仲の父の看取りをしたのは私。周囲は父ばかりを心配している様子。私が自分で努力を重ねて来た道が壊された事への悲しみに気づいた人は居ませんでした。私も決して誰にも言いませんでした。母も自分の寂しさばかりを気にする姿に…私は二度とこの家には戻らない。と心に刻んだ。だから父の他界の時『もういいよ』私はそう伝えました。

父は跡継ぎが欲しかった…だからお互いの存在に向き合う事がないまま。私はいつの間にか両親に線を引くようになっていました。
うっすら気づいていた居心地の悪さ、距離をとる事は私が身を引いていれば関係は悪化しない…これが自分の人生の色なんだと若くして気づいていました…。

気付かれないまま家族の犠牲となり辿る自分だけが自分を知っている道

この時にも、人には人生の色があるんだと云ことが良く理解できたのです。それは少し他人事のような感覚でもあり悟りの入り口でもありました。必死に学んだ建築の世界に足を踏み入れることなく、現実と夢のギャップ…居心地が悪すぎました。

それでも私は設計の業界にしがみつき…チャンスを願い続け努力だけは止めなかった。しかし自分が残せたものは多量の電子データと会社のタイムカード。自分は小さいままでした。

孤独と思っていた私にも子供の縁が

そんな中運命の出会いがありました。パートナーとのめぐり合わせ。そして子供との縁がありました。しかし、まだ何も自分には備わっていないため、悩みました。しかし答えは自分の中におのずとあったのです。

同時にまた、完成しない夢を追いかけなければなりませんでした。

私にとって全てを自己判断しなければならないものでした。結果、運命を受け入れた私は一卵性の二人の出産を決意しました。長い妊娠体験。

奇跡の体験は大きな絶望と希望の入り混じり

30歳の出産。一卵性双生児の女の子たち。大きな雷の音とけたたましい雨の音。二人との出会いは私にとっても命がけと言わんばかりの始まりでした。難産出産と超未熟児からの成長。

シングルマザーから始まる生活にいよいよ、夢を追いかけている場合でもなくなっていった自分が居ました。私も貴方も一人じゃない…生きていかなきゃと思うようになった私の人生。

生死を分けた出産

出産予定日にはまだほど遠い9カ月を過ぎた頃、私の中では異変が起きました。胎盤を共有する一卵性の二人は姉の血液が片方の体に流れこみ血液を多量に受けた妹は肺を破り一時心肺停止の状態に。双胎間輸血症候群です。母子共に緊急手術は行われ私自身も一時不明の状態に。

一人の娘は紫色に。一人の娘は小さな鳥が鳴くような声で生まれました。ドクターたちが走り回り紫色になった娘をどこかに連れて行ったのです。手術室の扉がしまり・・会ってもいない娘の死を覚悟せざるをなく。2日経ち、嘘のような話が聞こえてきました。意識が戻ったのです。私も紫色になっていた娘も。

生きる強さを見せられた誕生の時  親子ともに救われた経験

神が降ろした命と知る

母が言いました法者(祈祷師)に行き命を守ってもらえる様にお願いしたと。祈祷師は娘たちを三途の川に連れて行かないように願いをかけたと。ガタガタと音を鳴らして神棚の扉が揺れてもいたが遂には神頼みは届いたんだ。って。

祈祷師の先生は汗だくで教文を唱えるとまるで力が抜けたように膝間づいて『やった! 病院に戻ってごらん。あの世には連れていかれて居ないよ』って。

眼を開けた私の顔を、言葉を失った母が覗き込んでいた。私はそれだけでも少しだけ嬉しかった。どうしてこんな人生なんだろう。

娘の様態が危機から脱した頃、対面が出来ました。二人は超未熟児。身体障害が残るかもと懸念も受け。しかし、息を吹き返したからには一緒に生きていこうって思ったのです。

当時、他の病院で娘らより未熟児の子供が生まれたというニュースを聞き驚きました。まだ1200グラムの娘はましな方だとさえ。700グラムで生まれたその子はなんと健在、さらに三つ子さんが元気に生まれたnewsも。一体人の運命は誰が決めているのだろう。

重なるしんどさ…出産後の逃れられない開眼

パートナーとの不和。私は父親同様、目を背けていましたが…。それが避けられない事態を起こしたのです。人の事は放っておいた方がいい、自分だけで生きていくことが身を守れるのだから。とまだ、そう思っていました。

しかし、『10歳 神仏との契約』

あの頃に課せられていた約束が動き始めたのです。『人生を見つめて自分の役割に目を向けなさい。子供を守り人の生き方を学びなさい』

さらなるお告げが来たのです。あーまた来た!聞きたくないやつ。

縁を持った人が足を引っ張る思考の持ち主だと分かった時、人はしっかりと向き合わないとならないものなんだと、だからこそ悟りを開け!との事。関わりたくない分野でしたけれど。相手の嘘を言う言葉にガツン!と神の怒りとともに私は開眼してしまったのです。

相手の素行、人格、考え、育ち、その人の環境まで。視えるということがどれほどややこしい事か。人の事は知らなくても良い部分、あるのですから子育てをしながらの開眼は少し辛くエネルギーをとられていきました。

なんでも視えて…とくにPTA(自分が人生の中でPTAに参加するなんて思ってもなく)…これまで避けきた道でしたが『もう自分のやるべきことを真っすぐに進みなさい』天の声によって私は入職することに。ここでは宿命からもう逃れらることが出来ませんでした。

なぜならば、撥ね退けてきた長い間、実際には熱が止まなかったのです。神の道に入ることによってとりあえず体調不良からは解放されました。建築家への夢も叶わせてもらえる訳ないじゃない!

そこから鑑定業が始まりました。そこにあったのは覚悟のみ!

私は耐えがたいカサンドラ症候群に

シングルでツインズを産み、私は自分のように子供たちには孤独を感じて生きていて欲しくなかった。急に慌ただしく、仕事も多量に抱えながら小さな二人を育てる事になりましたがどうしても仕事中心のスタイルを曲げることが出来ずにいました。それをうまく解決するには自分の睡眠を削っていくほかありませんでした。

それでもよかった。たかが眠れない位なんとかすれば。シングルマザーという生活。

有る時、ふと、どうせなら立派な人が父親になってくれたら…思いを抱くようになったのです。あれほど父に苦しめられてきたのにも関わらず娘達にとっては父親が必要と感じたのです。

私は一人の男性と縁を結びました。彼の『責任を持つから』という言葉を信じ家族の縁を。

話し合いのできない男性 しかしそれは紛れもない自分の夫 

家族の話し合いに向き合おうとしない夫。エネルギーを吸い上げられていくのが分かりました。夫は自分のキャリアばかり気にし私たちを煩わしく思い次第にDVが始まり手を上げるようになっていたのです。

自己中心な人の思考の犠牲になるのはもう沢山でした。彼の回避的な行動と支配的な感覚はとても家族を守るようには見えませんでした。

話は通じずつ、やることなすこと否定をしてくる。私は次第に自分を責めることに心が落ちていく…恐ろしい感覚。気づいたら自分を責めるようになっている。

協力の雰囲気はなく、私はついに神経失調と記憶の分裂のようなもの、鬱の発症をしてしまったのです。これが鬱かって!鬱の怖さ。一人だけ闇の不安は自分でもどうしようもないまま。

なぜ夫は家族を持ちながら大切にしないのか。

家族であるはずなのになぜか一人だけ追い込まれていく…精神の不安が呼んだ崩壊

どうしても自分で生み出した家族には目を向けず、夫は自分の親族ばかりを大切にしていました。

『うちの弟を大切にしなさいよ』『貴方が悪いんだから謝るべきだ』

何をやってもどことなく私が否定される環境に身を置くことになっていたのです。私にとっては不思議な空間に思えましたが彼の一族はとても兄弟の繋がりが強く自分たち以外の関係を受け入れてない。妻であっても子供であってもなんだか内輪の人間として見ようとしない。そんな難しい境目をもったタイプの一族でした。

日々、なぜか夫の兄弟らからは数十件も私に電話が来る。自分の弟と仲良くしているのか?大切に扱っているのかを確認するために。これは精神を追い込むには簡単な道具でした。だれも止めてくれる人が居ないのです。そして眠れない日々が襲いました。

家族の中心がズレ続け夫との関係は溝を生む。親戚の入り込みはなぜか増しました。なぜ未来のある子供たちを見る事が出来ないのか。親戚や兄弟ってこんなにはいりこんでくるものですか?付きまといのようにずっと見張っている。さすがに気がおかしくなる線を超えそうな時精神失調があら表れすぐに体は動かない。ついに鬱の追い込みと記憶障害も。

35歳 ついに壊れた家族 
幸せになろうとすればするほど
何かがおかしくなっていく

自閉症スペクトグラム児の母となり…受け止められなかった子育てとの闘い

私はもう一人息子を出産しました。しかし多忙、十分に愛情を与えてあげられないまま、自閉症スペクトラムと戦い続けている息子と目まぐるしい生活を送る事になりました。全て一人で抱える苦しみはどうしようもありませんでした。

自問自答を繰り返しながら家族との関りに疲れと限界‥自分が休む間もない。ワンオペはさらにワンオペとなり生と死の狭間の思い。

追い込まれていく子育ての苦しみをなんとか麻痺させながら進むしかありませんでした。更に子供への母親の責任に対する風潮は社会的な視点からも家庭の一員としても重圧を感じました。常に離婚を考え、現実と逃避との間に自分が居る。生まれてきた子を責める訳にもいきません。

学校の支援を頂きながらなんとか理解をしようと取り組むけれど、子供たちの間では常にトラブルが絶えず、家族以外の場所でも問題が起こる事。

歯医者に連れていくだけなのに居なくなるから数時間も探し回らなければならない事、年下の学生と喧嘩をしながら叫んで帰ってくること。なぜ、そこまでして混乱を呼ぶ暮らしをしなければならないのか。

私が母親でいることを辞めるほかない。愛したくても混乱は止まず愛を示せない。

答えの出ない家族の問題。

機能不全家族‥DVと精神崩壊 気づかぬ本人
‥被害者意識が壊した大切な家族

夫のストレスを私にぶつける日々。次第に私たちの家族はDV家庭にはよくある警察沙汰の領域に踏み込んでいました。機能不全家族・・このようなワードを聞いたことが在りません…私がこの家族を作るまでは。

夫は子育てには殆ど協力をせず気の向く時だけ。子供の話をしたくても自分には関係ない。という空気、私が父から味わってきた事を私の娘たちにも味合せる様になっていたのです。

暴力を受ける事への苛立ちと体力の消耗、意識分裂、子供たちの不安。本当に休みたかった。相手を信じたくても何がそうさせているのか、理解しようとしてもその時に解明できたことは殆どありません。

何が原因で妻を殴るのか?

あいっちゃ!としか言えない孤独が生んださらなる失敗

私はその長年の孤立とストレスの為に、一度大きなミスを犯しました。致命的も致命的。私は離婚直前に特殊詐欺に巡り遭ったのです。離婚を控えているのに詐欺にも会う。どういうこと?マイナスルーレットが回り始める負の連鎖‥不思議でした。

家庭が崩壊している男性からのSNS詐欺でした。犯罪者と心理戦争のような悪事件、ツインレイと偽ツインレイ、出来損ないの巡り会わせに運命の悲しさを知りましたが悪循環とはこのことで。

人生の限界を味わっている自分が居ました。どうにもならない。相手を分析もしてみましたが愛情のない家庭の持ち主。夫婦の騙し合い。私はそうした家族に巻き込まれてしまったのです。意味もなく。

いよいよ負の連鎖から抜け出すことを決意しました。残されたのは決意しかありませんでしたから。私の中に存在していた父親像‥憎しむ心。

もう手放そう 何もかも。はっきり感じたのです。誰にも私の人生の邪魔をされないよう…穏やかに生きていきたい。自分で呼び込んでいるものもあるんだと気が付いたのです。

DVを起こす人は治らない。

犯罪を犯してしまった彼は未だに逃亡。詐欺の主犯格の男性もまだ、情報を塗り替えて世間に堂々と出ています。止められないのです。その悪質な心。

DVは治らない。

弱った自分では人生を歩いて行けない子供たちが居たから前進することが出来た現実

ならば力を合わせよう.

それまで誰にも相談せず判断力を失いかけていたのを覚えています。とても疲れていました。夫に頼ることが出来ないまま全てを一人でこなすワンオペ生活。暴力からくるストレスで現実逃避が心を分離させたんです。

一人で生きようとすることが間違いを起こすのだと学んだ一件。しばらく休息をとればよかったって後からよく反省しました。必死に生きて居たらそんなことを判断することさえとても大変なエネルギーなのです。

だからこそ誰かが救いをしなければならない。私にとっては神の声と亡き祖父の声が頼り。あとはいかに自分が真っすぐにできるかどうかだけでした。しかし、本当の指針はまっすぐに生きていこうとする子供たちの純粋な姿でした。

いつの間にか母を頼らぬ自分
…母が味方になってくれていたとしたならば

うまくいかない人生、その陰に何があるのかを解明しようとした私は数十年の思いを母親にぶつけたのです。感情は母に突き刺さり静かにいくらもの涙は母の頬を流れました。

いつも外野で見ていた母の姿に女性として生き方が違う事、どうせ私のことなど理解できないだろうと母親を無碍な存在として決めつけていた…そういう自分が育っていました。一言だけ母が私に言いました。

『貴方が家族の犠牲になっていたんだよね。すまなかった』と。

その母の年齢は既に80歳。彼女は自分の生き方を知ろうとしては居なかった。だから私の事も理解もなく。両親への期待と絶望。確認などしなければ良かった。存在を認めさせたい思いで親の口から真実を聞きたかった。しかし、答えは私が感じていた通り…こんなもんだよなって。

残された人生 

二度と繰り返さないと心に誓う

報われることを求のめ続けた長い時間。

私は自分の本心に向き合い人に譲らない人生・犠牲にならない人生。

自分を大切にして生きていくことが必要だと決意しました。

10歳のころ『運命と宿命』長い時間の戦い。

神の誓約を受け、これほどに体験したのはカルマというもの。

ようやくここまで生きてきた。いつも苦しいことがあると死に向かう気持ちも生まれていました。もうこんなに時間が経ってしまった。

そして息子は科学者への道を目指し進学校へ合格したのです。親となった自分は未熟だと自分を責めていました。しかし子供達は自分らの未来をちゃんと見ていました。嬉しかった

皆一人ではありません。

バトンは未来に向かっている
…いよいよ子供たちが未来へはばたく幸循環へ

長い時間、様々な経験をしましたが実際に私が救われた瞬間があります。私はようやく1つ何かが終わったと感じました。振り回された私の人生の時間。使命を受け‥命がけでこの世に生まれた双子の娘達が志望大学に合格しその道を自ら進み始めた時。1人の娘は芸術家の道へ1人の娘は建築家の道へ。

私の出来なかった事を自分たちの意志で人生の路に選んだのです。

最後に

鑑定所開設、開業し現在までに延べ約6万人以上の鑑定、あらゆる件に携わりました。

霊能業は多くの方々とのご縁とともに様々な人生にも触れながら、自身の人生もあらゆる波を経験しながら現在にたどり着きました。1人でも多くの苦しみを、寄り添いながら解消し本来の自分自身の道を歩んでいると感じられる貴方の姿に導けますことを願っています。

これらの人生の土台は同じように苦悩する貴方にも必ず役に立つと心に刻んでいます。一緒に運命に寄り添い幸循環の道を進みましょう。

お読み頂きありがとうございました。

山﨑了観

『大切なご家族との別れを経験された方へ』

どんな心で生きていけばよいのか。一緒に考えましょう。

『親を頼れないまま自分で成長を遂げてきた貴方へ』

気が付いたら一人で頑張る。それは一体貴方にとって幸せですか?

私の経験を貴方の人生のヒントに
自己理解ができれば恐れは無くなる。
悪循環から好循環の道へ